今思うと、発達障害のような子供

好奇心の旺盛な子供でした。

記憶力が良くて、成績は体育以外は5段階評価で、5か4。

生活の評価はABCで、協調性はいつもB、公共心も時々Bでした。

授業はつまらないと他の事をしたり、考えたり、

算数は大好きで、いつも一番に手を揚げていました。

2年生の時、始業前に学校を用事で抜け出し、戻ってきて叱られた。

なぜ叱られるのか分からなかったけど、学校から勝手に出たら叱られる、、、、

という事は理解したと思います。

 

黒柳徹子さんの、トットちゃんと少し似たところがありました。

 

何でも臆せずに言いたいことを言うので、嫌う人もいたと思いますが、

仕切るのが好きで、学級委員もしていたから、目立つ存在でした。

時には、外される事もありましたが、苛められる事は無く、学校は好きでした。

 

手を使うのが好きだから、球技は好きでした。

足は遅くても、ボールのドリブルは早い方でした。

歌は音痴で上手ではありませんが、楽器の演奏は得意でした。

絵を書くのは苦手でしたが、図工は好きで良く誉められました。

 

4年生の時にそろばん塾に通い、5年生で2級に合格しました。

それが凄い事のように言われましたが、早すぎたのか、指が追いつかず

数字が多すぎてついていけないと、楽しくないので辞めました。

今でも計算は、電卓より筆算が好きで、暗算も得意です。

 

学校へ行きだしてから、父親の居ない子供が少ないを知りました。

両親揃っているのが普通で、片親は何だか外されている気分でした。

小学生の頃から、好き嫌いがはっきりしていました。

読み書きより、空想好きで、考える事が好きで、想像して遊んでいました。

シュタイナー教育の、ファンタジーな子供のようでした。

TVドラマの影響もあったと思います。

 

祖父母、養父母、実母、兄と私の7人家族で、女手は足りていましたから、

手伝いを強要される事も、躾けを教えられる事も無かったように思います。

学校の成績にも、それ程の関心も無く、あれこれ言われた記憶も無い。

ただ、祖父に逆らうと叱られるので、他人のような存在に感じてました。

私は自分のままに勝手に育った天然だと、今は思います。

走るのが苦手だった私がフルマラソン走り、車で東西を往復し、

会話で覚えた英語を話し、自分でするしかないので、パソコン覚えた。

それが必要と知り、興味を持てば、マイペースで学習できます。

それも、子供の頃の食や自然の暮らしが導いてくれたと思い、

亡き家族へ感謝します。

 

 

運を引けば宿命が生かされる

母に抱かれた私、ひとつ上の兄、後に養母となる叔母。

12月生まれなので、まだ一歳前、父が撮った写真だろうか?

14ヶ月で、父は他界した、女の子の育たない家に私が育ったので、父が死んだ。

そんな事を言う人も居たと、母から聞いた記憶があります。

兄は跡取りとして、大事に甘やかされ、私はほって置かれたように育ちました。

 

戦後の農地改革で田畑を手放し、百姓としての生活は厳しかったよう、

現金収入は、お坊ちゃん育ちの祖父が、自分で使い放題、

農閑期に肉体労働に出れる、稼げる男性が居ませんでした。

 

行動的な性格は母に似ましたが、エコロジー的な生活は養母から学びました。

薪のお風呂に、釜戸のご飯、茅葺の家に井戸水、

関東大震災で傾いたままの家は、障子が閉まらず、隙間風の入る寒い家でした。

手仕事好きな養母と、新し物好きな母は、相性が良くありませんでした。

私の質素倹約は、子供の頃に身についた、養母の教えと感じています。

 

世間が物質的に豊かに成ると、時代から遅れているように感じ、

父親が居ないことが、恵まれない事のように思い、夢が持てませんでした。

中学卒で働いて、自立するのが希望でしたが、手段が分からず、

成績も良かったので、街の高校へ行き、卒業後に上京しました。

 

貧しかったとは言え、農家ですから食べる物には困らず、借金も無く、

ただ物質的な豊かさが無いので、物を買う事の少ない暮らしでした。

 

そんな私が、長門裕之・南田洋子夫妻のお手伝いさんに成り、

贅沢な暮らしを体験し、貯金をしてカナダへ行き、ご縁あって紹介されたのが、

映画グースのモデルに成ったBill&Paula Lishmanの家でした。

この出会いがなければ、ニット作家の道は無かったと思います。

 

その後もヨーロッパ、エジプト、アジア、オーストラリアを旅して、結婚・出産。

十津川村へ移住して25年目に成ります。

 

幼児期の環境に似た田舎暮らしは、宿命に感じます。

私の実家は本家で、私が25歳の時に分家の娘さんが亡くなりました。

食の考え方を拒否していた母が、移住した翌年に亡くなり、

西丸震哉さんの41歳寿命説のように、兄が亡くなり、

大学を卒業して、実家に戻った姪が25歳で亡くなり、

畑仕事で土をいじり、粗食で手仕事をしていた養母が、92歳まで生きた。

私は因果とか、自分が生かされている意味とか、考えるように成りました。

 

PTA会長をして、世間とか教育行政、政治にも関心を持ち始めました。

好きな事を仕事に出来ても、現金収入は必要です。

このまま十津川村で暮らしても、思い描くような未来は遠いので、

再度、移住しようと行動に出ました。

 

私の行動が、運を引き寄せるかどうかは、分かりませんが、

過疎の閉鎖社会のお蔭で、古き良さも少し理解できたと思うし、

アメリカンナイズしたままでは、作家としての精神も持てなかったと思います。

 

“運は誰にでも流れているけれど、掴める人とそうで無い人が居る、貴方は掴める人だから、明るく前を向いてなさい”

南田洋子さんに言われた言葉を、思い出します。

 

農家育ち田舎娘の不思議なご縁

はじめまして、ニット作家JUNCOのブログです。

雪姫鳥は北米の渡り鳥 Juncobird の和名です。

鳥のご縁から、工房名に雪姫鳥と名付けました。

群馬県の米農家に育ち、昭和の時代ですから、手仕事が身近にあって、

8歳の頃から糸と遊びながら、編み物にはまり、本を見て独学しました。

日本の田舎にありがちな、理不尽で複雑な家庭環境の中で、

自由と自立があこがれでした。

 

好奇心が強く、記憶力に優れ、理屈っぽい子供で、

意思が強く、言う事を聞かない子供でした。

今思うと、軽度の発達障害のようですね。

自身が天然だと気づいたのは、数年前でした。

還暦が近づき、ようやく自分が理解できます。

将来の夢は特に無く、ただ自由に好きな事をして、

ご縁を繋いで生きてきました。

 

負けん気も強く、自己主張も強いので、組織向きでは有りませんが、

好きな事を選んで、楽しく一生懸命に仕事をしたので、

金銭的には自立していました。

子供は親を選んで生まれる事は出来ませんが、

例え恵まれない環境に育っても、

道は必ず開ける事を、ブログを通じてお伝えしたい。

 

流れに任せた人生で、思想や精神性は後付ですが、

言葉でない哲学があったように思います。

 

心が感じた言葉や人、背中を見ていた先人達、食との出会い、

パートナーとの阿修羅の世界から、学習した自分自身との出会い、

私の思考と感性が、自分捜しの人へのヒントに成れば幸いです。